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常磐炭礦(株)(湯本地域)
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いわき市石炭・化石館 |
湯本礦第六坑斜坑坑口 |
西部礦業所・竪坑櫓, |
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模擬坑道 |
生活館 |
フラガール資料館 |
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常磐炭礦(株)磐崎礦業所 |
フラ・ミュージアム |
湯本山神社 |
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常磐炭礦(株)(湯本地域)の場所は、いわき市石炭・化石館 ほるるの場所で示せば、以下の地図のとおりです。 住所:福島県いわき市常磐湯本町向田3-1 |
いわき市石炭・化石館 ほるるは、福島県いわき市の石炭と化石について紹介する展示館です。その展示物の内の片方、石炭で紹介されている常磐炭田は、福島県 ・ 双葉郡 ・ 富岡町(地図)から茨城県 ・ 日立市(地図)にまで及ぶ、極めて長い地域に存在する炭田です。茨城県の常陸(ひたち)国と福島県の磐城(いわき)国とにまたがることから、常陸国の「常」の字と磐城国の「磐」の字を1字ずつ採って、「常磐」の名が付きました、その特に代表する地域は、常磐炭田を代表する炭鉱会社、常磐炭礦(株)(現・常磐興産(株))の本拠地である福島県いわき市であり、常磐炭礦(株)の個別炭鉱の内さらに、代表的な炭鉱であった湯本坑(磐城礦業所)の跡地に、いわき市石炭・化石館 ほるるはあります。 以降、いわき市石炭・化石館 ほるる自体だけでなく、常磐炭田等、いわき市石炭・化石館 ほるるの外堀の話も含めて解説いたします(長文となり恐縮ですが、常磐炭田全体の産業遺産観光としての「まとめ情報」として、以下の解説をご利用下さい)。なお、解説欄の文章が長くなってしまいましたので、目次を示せば、以下のとおりです。 <常磐炭田の概要> みろく沢炭鉱資料館(地図)配布資料ならびにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 常磐炭田によれば、常磐炭田の始まりは、加納作平、神永喜八、片寄平蔵らです。磐城(いわき)地区では、みろく沢炭鉱資料館配布資料によれば、加納作平は、江戸時代の安政3年に片寄平蔵が弥勒沢(みろくざわ;現・福島県いわき市内郷白水町広畑223のみろく沢炭鉱資料館所在地)で石炭を発見し、磐城(いわき)地区では、みろく沢炭鉱資料館配布資料によれば安政5年(1858年)に、常磐炭田の石炭発見の地・弥勒沢で、養父作次郎、片寄平蔵らと友に石炭採掘に着手しました(弥勒沢では、異説として、いわきヘリテージ・ツーリズム協議会 ・ 常磐炭田略年史によれば、安政4年(1857年)に片寄平蔵が弥勒沢で採掘を開始した旨が載っています)。また、常陸(ひたち)地区では、いわきヘリテージ・ツーリズム協議会 ・ 常磐炭田略年史によれば、嘉永4年(1851年)に神永喜八が石炭採掘に着手しました。
明治時代以降は、常磐炭田には大小様々な炭鉱が入り乱れて一大発展をします。本稿で紹介する、いわき湯本温泉周辺の湯本地区の話は後回しにして他の地域の主な炭鉱を例に挙げれば、上記の弥勒沢(みろく沢)周辺には多数の中小炭鉱が時期に応じて生じました。また、弥勒沢(みろく沢)がある常磐線 ・ 内郷駅(旧・綴(つづら)駅)周辺地域には、古河鉱業(株)(現・古河機械金属(株))による古河好間(よしま)炭礦(古河好間炭鉱;昭和39年(1964年)閉山,この辺り(地図))(注1)や、常磐炭礦(株)(現・常磐興産(株))内郷礦(常磐炭鉱(株)内郷鉱、昭和41年(1966年)採炭終了、この辺り(地図))(注2)、三星(みつぼし)炭礦(株)綴(つづら)礦(大正2年(1913年)閉山、(この辺り(地図)))(注3)等の炭礦がありました。常磐炭礦(株)内郷礦跡地には、今日(2012年9月現在)でも、選炭場(地図)(注2(再))と水中貯炭場(地図)(注2(再))や、そのすぐ東方に住吉第一坑坑口(地図)(注2(再))、扇風機上屋(地図)(注2(再))等の産業遺産が残っています。また、勿来(なこそ)駅地域には大日本炭礦(株)勿来礦(大日本炭鉱(株)勿来鉱)(昭和41年(1966年)閉山、この辺り(地図))(注4)がありました。なお、詳しくは当ページ(当画面)後方(下方)の「いわき石炭・化石館の概要・(その2:石炭)」欄で解説する経済産業省が平成19年(2007年)11月30日に認定した近代化産業遺産33件中の「常磐炭田関連遺産」の個別具体的な遺産の中に内郷地区では、 「古河好間炭鉱専用鉄道橋梁(地図)(注5)」、「古河好間炭鉱産業戦士像「進発」(いわき興産(株)(地図)事務所脇)(注6)」、「古河好間炭鉱ズリ山(田代ズリ山)(地図)(注7)」、「好間炭鉱隧道跡(この辺り?(地図))、鉄道盛土帯(地図)、鉄道橋台跡(この辺り?(地図))等(注7(再))」、「常磐炭礦内郷礦山(さん)神社跡(地図)、相撲場跡(地図)(注8)」、「弥勒沢炭鉱資料館内展示物(石炭採掘・運搬関連炭車、道具類)(地図)」、「常磐炭礦内郷礦坑口(地図)(注2(再))、扇風機上屋(地図)(注2(再))、水中貯炭場(地図)(注2(再))、選炭場(地図)(注2(再))」、「三星炭礦大煙突と煙道及びズリ山(この辺り(地図))(注3(再))」、、「母子想 像(佐藤忠良作,常磐炭礦内郷礦山(さん)神社(地図)から移設されて、今日では福島工業高等専門学校(地図)校内)」が認定されています。
上述の内郷地区と、後述するいわき湯本温泉周辺の湯本地区の炭鉱産業遺産観光について詳しくは、以下のリンク先サイトでご参照いただける他、2012年9月現在の時点では、いわき市石炭・化石館 ほるるでお買い求めいただける、以下のパンフレットや資料でご参照いただけます(ので、事前にお調べ可能です)。なお、ただし、産業遺産の中には企業の敷地等にあるものもあり。許可無く勝手に入ってはいけない場所もあります旨、ご注意下さい(他地域の炭鉱産業遺産も同様ですが)。この場合も遠望はできる他、以下の資料中、『いわきの産業遺産ガイド ヘリテージツーリズムへの誘い』pp.56-57で、許可の要否や立ち入り禁止か否かの情報が載っています。事前立ち寄り許可が必要な場所に関して状況にご不明な点がある場合には、『いわきの産業遺産ガイド ヘリテージツーリズムへの誘い』p.59によれば、当該所有会社か、常磐炭田史研究会か、或いはいわきヘリテージツーリズム協議会にお問い合わせ下さいとの由です。
一方、常磐炭田は茨城県では、例えば北茨城市の常磐線 ・ 大津港駅(旧関本駅)西方地域に、常磐炭礦(株)神ノ山礦(常磐炭鉱(株)神ノ山鉱、昭和46年(1971年)閉山、(この辺り(地図)))(注1)がありました。また、常磐線 ・ 磯原(いそはら)駅西方地域には、重内(しげうち)炭礦(重内炭鉱、昭和44年(1969年)閉山、(この辺り(地図)))(注2)があり、常磐線 ・ 南中郷駅西方地域には常磐炭礦(株)中郷礦(常磐炭鉱(株)中郷鉱、昭和46年(1971年)閉山、(この辺り(地図)))(注3)がありました。重内炭礦の後身会社は、今日の不動産会社「(株)シゲウチ」です。約10年前には独自ホームページがありましたが、2012年9月現在、リンク切れになってしまっています。北茨城市の炭鉱については、2012年9月現在、北茨城市歴史民俗資料館(地図)の2階に、炭鉱関係資料が展示されているとの由です。また、高萩(たかはぎ)市には、常磐線 ・ 高萩駅西方地域に高萩炭礦(株)高萩礦(高萩炭鉱(株)高萩鉱、昭和42年(1967年)閉山、この辺り(地図))(注4)等がありました。高萩炭礦(株)跡地は、一時期は総合宿泊研修所・大心苑になりましたが、現在では一部事業を残して休業し、その後、茨城新聞ホームページ ・ 2012年5月9日(水)付け「炭鉱風景振り返る 高萩に資料館、22日開館 ジオラマや記録写真展示」によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、平成24年(2012年)5月22日に、菊池寛実記念高萩炭礦資料館(地図)がオープンしたとの由です。菊池寛実記念高萩炭礦資料館(地図)のパンフレットによれば、2012年9月現在、開館日は毎週末(金・土・日)・祝日で、開館時間は11:00〜16:00、入館料は無料との由です。なお、高萩炭礦(株)の後身会社は、今日の(株)南悠商社です。なお、詳しくは当ページ(当画面)後方(下方)の「いわき石炭・化石館の概要・(その2:石炭)」欄で解説する経済産業省が平成19年(2007年)11月30日に認定した近代化産業遺産33件中の「常磐炭田関連遺産」の個別具体的な遺産の中に北茨城市では、 「常磐炭礦(中郷礦の)炭住(炭鉱住宅)群、山神社、世話所、倶楽部(この辺り(地図))(注5)」、「常磐炭礦茨城礦業所(中郷礦) 石炭積込場、選炭場など(この辺り(地図))(注3(再))」、「常磐炭礦(神ノ山鉱の)炭住群、山神社、世話所(この辺り(地図))(注6)」が認定されています。
上記の近代化産業遺産のスポット内、「常磐炭礦・中郷礦の炭住群(この辺り(地図))」と「常磐炭礦・神ノ山鉱の炭住群(この辺り(地図))」は、スパリゾートハワイアンズ公式WEBサイト ・ フラガール特集「周辺ロケ地スポット」 ・ ロケ地マップ(PDF版), e-まちタウン ・ ドラマ・映画ロケ地ガイド ・ フラガール, 全国ロケ地ガイド・ホームページ ・ フラガール ロケ地情報 ・ フラガール・ロケ地マップ等によれば、近代化産業遺産としてだけでなく、映画「フラガール」のロケ地にもなった所であり、ロケ地訪問観光スポットでもあるとの由です。「常磐炭礦・中郷礦の炭住群(この辺り(地図))」の方は、蒼井優演じる主人公・谷川紀美子が住んでいる炭鉱住宅や「バスに乗った谷川紀美子が、松雪泰子演じる平山まどかに笑顔を見せたシーン」のロケ地であり、一方、「常磐炭礦・神ノ山鉱の炭住群(この辺り(地図))」の方は、平山まどかが住む炭鉱住宅や「谷川紀美子が夕張に行く友達をバス停で見送ったバスのシーン」や「椰子の木が枯れるのを防ぐために、三宅弘城演じる猪狩光夫がストーブを集めていたシーン」の、ロケ地であるとの由です。映画「フラガール」は、登場人物の名前が実際と異なっている等の点においてはノンフィクションではありませんが、当ページ(当画面)後方(下方)の「石炭産業の斜陽化と経営多角化(スパリゾートハワイアンズの設立)」欄でも後述する、石炭産業斜陽化の状況下で、今日の用語で申せば企業内起業(コーポレート・ベンチャー、イントラプラナー)的手法の経営多角化によって自社と地域のサバイバル(生き残り)を実行した実話・史実に基づいた「限りなくノンフィクションに近いフィクション」とも言うべきジャンルに属する感動の映画であり、谷川紀美子と平山まどかには実在の人物のモデルの人物がいます。谷川紀美子のモデルになった人物は、常磐音楽舞踊学院1期生の小野恵美子(旧姓:豊田恵美子)氏であり、一方、平山まどかのモデルになった人物は、常磐音楽舞踊学院最高顧問のカレイナニ早川(本名:早川和子)氏であるとの由です。また、岸部一徳演じる吉本紀夫は、常磐炭礦(株)元社長の中村豊氏がモデルであるとの由です。ただし、「常磐炭礦・神ノ山鉱の炭住群」については、e-まちタウン ・ ドラマ・映画ロケ地ガイド ・ フラガールと全国ロケ地ガイド・ホームページ ・ フラガール ロケ地情報 ・ フラガール・ロケ地マップによれば茨城県 北茨城市関本町富士ケ丘の炭住(この辺り(地図))がロケ地になっていますが、スパリゾートハワイアンズ公式WEBサイト ・ フラガール特集「周辺ロケ地スポット」 ・ ロケ地マップ(PDF版)では県境を越えて福島県に入った所に場所がプロットされています。インターネットでの「ロケ地訪問」のブログ日記記事等では茨城県 北茨城市関本町富士ケ丘の炭住(この辺り(地図))が多い模様です。実際にはどちらが正しかったのか、また、常磐炭礦(株)神ノ山礦((この辺り(地図)))の炭住が福島県と茨城県とにまたがって複数ヶ所あったのか等、詳細については存じ上げません。なお、映画「フラガール」に対しては、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)後の復興・再建を描いた続編的映画「がんばっぺ フラガール! -フクシマに生きる。彼女たちのいまー」もあります。これらの映画や関連書籍のダウンロード配信/DVD/ブルーレイ・ディスク/本については、以下のリンク先でお買い求めいただけます。
<常磐炭礦(株)湯本地域の歴史(戦前編)> 話を、常磐炭礦(株)の本拠地があった、福島県いわき市のいわき湯本温泉周辺の湯本地区に移します。常磐炭礦(株)は常磐炭田を代表する炭鉱会社でしたので、湯本地区の中でも特に、常磐炭礦(株)の本拠地があった常磐炭礦(株)湯本礦(常磐炭鉱(株)湯本鉱)は、常磐炭田を代表する炭礦だということになります。今日のいわき市石炭・化石館 ほるるがある場所は、常磐炭礦(株)湯本礦の跡地です。どうやら常磐炭礦(株)磐城(いわき)礦業所と呼ばれたこともあった模様なのですが、「磐城礦業所」と「湯本礦」とは同じ物なのか別物か、或いは「湯本礦」も含む組織が「磐城礦業所」等、詳しいことは調べてもよく分かりませんでした。資源エネルギー庁資源・燃料部石炭課監修石炭政策史編集委員会編『石炭政策史【資料編】』(財団法人石炭エネルギーセンター発行,2002)では、p.141で「湯本礦」が昭和44年(1969年)に閉山した旨が載っており、一方、『石炭政策史【資料編】』p.143には常磐(じょうばん)礦が昭和46年(1971年)と2年ズレた年に閉山した旨が載っており、さらに、この昭和46年(1971年)は常磐炭田史研究会編『いわきの産業遺産ガイド ヘリテージツーリズムへの誘い』(いわきヘリテージツーリズム協議会発行,2011年改訂版)p.55によれば「常磐炭礦(株)磐城礦業所」が閉山した年と一致するものの「常磐礦」と「磐城礦業所」とは微妙に名称が異なっており、この辺りの「湯本礦」、「常磐礦」、「磐城礦業所」の関係がどうなっているのか、よく分かりませんでした。なお、『石炭政策史【資料編】』のp.141掲載の「湯本礦」とp.143掲載の「常磐礦」には会社名が載っていないため、「湯本礦」の方は「いわき市常磐湯本町」の住所から常磐炭礦(株)湯本礦である旨が推測可能であるものの、「常磐礦」の方は「福島県いわき市」と「市町村」単位でしか住所が載っていないため、上述のとおり「磐城礦業所」と同じであるのか否かも定かではありません。「常磐礦」はともかく、「磐城礦業所」と「湯本礦(第六坑(地図)等)」については、福田智之の人生は挑戦だ!! ・ 常磐炭坑跡地に「常磐炭礦(株)いわき礦業所には終戦当時、住吉・綴・川平・六坑・四坑・磐崎の各坑に選炭場があった。」という記載があり、また、特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭田概略図には「常磐磐城鉱(内郷坑)、常磐磐城鉱(湯本坑)、常磐磐城鉱(鹿島坑)」という記載がありますので、「磐城礦業所」は常磐炭礦(株)運営の個別の炭鉱のことではなく、常磐炭礦(株)運営の「湯本礦」や「内郷礦(地図)」等の複数の同一地域内の個別の炭鉱を束ねた事業単位であった可能性が高い旨が窺えます。時期にもよりますが、「湯本礦」閉山時点では、後述する西部礦業所以外の個別の炭鉱は既に閉山済みでしたので、「位置付け・定義としては『磐城礦業所⊃湯本礦』ですが、末期には実質上、『磐城礦業所=湯本礦』と化していた」というの仮設を立てた上で、併せて全てを常磐炭礦(株)湯本礦と総称することにいたします。そして、参照資料に基づいて「磐城礦業所」と表記する場合も、常磐炭礦(株)湯本礦と特に区別せずに、その表現を用いることといたします。以降では、この仮設は間違っている可能性もあり得る旨もお含み置きの上で、お読み下さるようお願いいたします。 常磐炭田史研究会編『いわきの産業遺産ガイド ヘリテージツーリズムへの誘い』(いわきヘリテージツーリズム協議会発行,2011年改訂版)pp.54-55や常磐興産(株)公式ホームページ ・ 会社の沿革やフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ 常磐興産や常磐炭田史研究会 ・ 資料 ・ 内郷地区における炭鉱鉄道と炭鉱住宅等の遺構〜入山採炭梶i→常磐炭礦梶j専用鉄道内郷線〔白水川(→新川)沿い〕(PDF版)等によれば、常磐炭礦(株)は元々は、明治16年(1883年)(注1)に浅野総一郎が創立して小野田炭礦(小野田炭鉱、昭和38年(1963年)閉山、この辺り(地図))(注2)で横坑開削に着手した「磐城炭礦(株)」と、明治28年(1895年)に白井遠平が創立して高倉坑(第一坑、閉山年不明、この辺り(地図))(注3)開削に着手し、明治30年(1897年)に川平坑(第二坑、昭和37年(1962年)閉山、この辺り(地図))(注4)で竪坑開削に着手した(注5)「入山採炭(株)」という、別会社でした。昭和19年(1944年)3月に両社は合併して、常磐炭礦(株)になりました。なお、前述の「湯本礦(第六坑(地図)等)」は、合併前の入山採炭(株)による個別の炭鉱です。湯本地区や内郷地区の炭礦は、温泉湯脈とぶつかって坑内に大量の熱出水があり、「ポンプで吸い上げないと水没」したり、「坑内に水風呂を用意し、時折裸で飛び込んで体を冷やしながら採掘した史実があった」りする等の灼熱地獄とさえ言える程の我が国でも希に見る劣悪な環境での採炭を強いられる炭礦でした。いわき市石炭・化石館 ほるるの模擬坑道では、2012年9月訪問時現在、この坑内の水風呂が展示されています。
<常磐炭礦(株)湯本地区と湯本温泉の関係史> 前段落で述べた、内郷・湯本地区の炭鉱は大量の熱出水に苦しめられながらの採炭を強いられたという点は、逆に、石炭採掘がいわき湯本温泉の温泉資源保持と競合するという課題を抱えた炭鉱でした。このため、温泉保養士の活躍する温泉地 - いわき湯本温泉 ・ いわき湯本温泉の歴史によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、明治35年(1866年)に石炭採掘のために温泉源が下がって温泉が自噴しなくなり、さらに、ついに大正8年(1919年)には一旦、温泉が枯渇してしまう事態に陥ってしまいました。これは、常磐炭田史研究会事務局(巡検委員会)編『常磐炭田巡検資料集成<その1>』(常磐炭田史研究会,2010年3月)pp.19-20によれば(注)、元々内郷・湯本地域での各炭鉱の採掘でいわき湯本温泉の温泉湧出量が減って地域に悪影響を与えていたところに、大正2年(1913年)に内郷地区の三星炭礦(株)綴(つづら)礦(この辺り(地図))で閉山に至ってしまった程の大量出水があったことが「最後のとどめの一撃」となり、温泉面が一気に6mも下がってしまったとの由です。『常磐炭田巡検資料集成<その1>』p.20によれば、石炭採掘による温泉への被害対策としていわき湯本温泉側が設けていた「湯本財産区」も急きょ温泉竪坑掘削を行ったものの数年後には吸湯不能に陥ったとの由ですので、上述の大正8年(1919年)の温泉枯渇とは、このことを指すのだと思います。後述の昭和17年(1942年)の温泉復活までの間の20年以上の期間、いわき湯本温泉は、例えば古滝屋大浴場更衣室内掲示板に書かれていた旅館史にあるように水を湧かしたり(=温泉ではない大浴場として浴場運営したり)、或いは、『常磐炭田巡検資料集成<その1>』p.20に載っているとおり炭鉱からの引湯に頼ったりして、なんとか耐えながら宿の経営を続けていた模様です。炭鉱からの引湯の場合には温泉ではあったものの、汚濁化による泉質低下で改善は不十分であったとの由です。この状況に対しては、『常磐炭田巡検資料集成<その1>』p.15,p.20によれば、昭和17年(1942年)に(企業合併によって常磐炭礦(株)になる前の、旧)入山採炭(株)と湯本財産区との間の協定が福島県知事調停によって成立した結果、入山採炭(株)(2年後の常磐炭礦(株))湯本礦第六坑(地図)坑内に湧く温泉を温泉街に送湯供給することにより、いわき湯本温泉は漸(ようや)く復活することになったとの由です。今日(2012年9月現在)のいわき湯本温泉の源泉は、この方式ではありません。常磐炭田史研究会編『いわきの産業遺産ガイド ヘリテージツーリズムへの誘い』(いわきヘリテージツーリズム協議会発行,2011年改訂版)p.55によれば、後年、昭和51年(1976年)の常磐炭礦(株)西部礦業所閉山によって湯本地区の最後の坑道掘り炭鉱が閉山した時に、いわき市、湯本財産区、常磐興産(株)が共同出資して温泉揚湯(ようとう)・供給会社「常磐湯本温泉(株)」を設立し、今日では常磐湯本温泉(株)の源泉揚湯からの温泉を、スパリゾートハワイアンズを含むいわき湯本温泉に送湯しているとの由です。常磐湯本温泉(株)によるいわき湯本温泉源泉揚湯場は、常磐線 ・ 湯本駅北方(地図)にあり、立ち入りは禁止ですが外から眺めることは可能であり、湯本駅からいわき市石炭・化石館 ほるるに徒歩で行く道の途中にありますので、いわき市石炭・化石館 ほるる訪問と併せて、「外から眺める」ことが可能です。なお、鉱山から湧く温泉を引き湯した温泉地の例としてはこの他にも、住友金属鉱山(株) ・ 菱刈鉱山から温泉を供給されている、鹿児島県の伊佐市旧菱刈町地域の湯之尾温泉の事例があります。
<関連情報について詳しくは>
<常磐炭礦(株)湯本地域の歴史(戦後編)> 昭和20年(1945年)8月15日に太平洋戦争が終わると、戦後の日本の復興の過程で傾斜生産方式に基づいて石炭は日本の基幹産業として増産を求められて、常磐炭田も活況を呈したとの由です。「いわき石炭・化石館 ほるる」公式WEBサイト ・ 施設のご案内・屋外施設や、常磐炭田史研究会 ・ 常磐炭田略年史等によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、昭和22年(1947年)8月5日に昭和天皇が全国巡幸(行幸)で訪れた際には、常磐炭礦(株)湯本礦第六坑人車坑の斜坑坑口(地図)から、昭和天皇が入坑されました。@nifty ・ ニュース ・ 雑誌記事『SAPIO』2009年2月11・18日号掲載「足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸」6ページ目(6画面目)によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、この入坑の際に昭和天皇は、「出炭が思わしくないのは、炭鉱の労働条件が悪いからではないか」として炭鉱労働者の状況を案じられ、湯本礦が「熱水炭鉱」である旨をご承知の上で地下450m、気温42℃の坑内にまで行き、上述のとおり温泉水と戦わなければならない灼熱の炭鉱の中で上半身裸になって働く炭坑夫達に、「苦しくはないか」「さぞ暑いだろう」等と声をかけて、炭坑夫達を感動させたとの由です。吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草 ・ 炭坑節のあとに(リンク先URLは2012年9月現在)や現地に案内板によれば、この時に昭和天皇がお詠みになった歌(短歌)は、 あつさつよき磐城の里の炭山に働く人よ雄々しとぞ見し であったとの由です。この湯本礦第六坑人車坑の斜坑坑口(地図)は現存しており、いわき市石炭・化石館 ほるるの屋外展示施設として一般公開されていますので、いわき市石炭・化石館 ほるるに行けば見に行くことができます。
<現在のスパリゾート・ハワイアンズの場所の過去の姿> 湯本地区の炭鉱と温泉の格闘史は、湯本地区や内郷地区全般的に言える話であり、常磐炭礦(株)湯本礦だけではありませんでした。おやけ こういち「温泉レジャー施設の「地霊」 −熱水で結ばれた三井礦山湯本礦と常磐ハワイアンセンター−」『常磐炭田史研究 第7号』(常磐炭田史研究会(いわき石炭・化石館内)発行,2010)pp.38-48によれば(注)、今日のスパリゾートハワイアンズ(開業時には「常磐ハワイアンセンター」)がある場所「いわき市常磐藤原町蕨平」には当初、大正6年(1917年)に採炭を開始した三星(みつぼし)炭礦(株)藤原礦があったとの由です。ところが、三星炭礦(株)は綴(つづら)礦(地図)が大正2年(1913年)に温泉湯脈とぶつかる大量熱出水で閉山に追い込まれたことで経営危機に陥り、保有する全ての炭鉱を売却せざるを得なくなったとの由です。このため、採炭を開始した直後の藤原礦も三星炭礦(株)は手放さざるを得なくなり、藤原礦は大日本炭礦(株)が取得して湯本礦と改称して、大日本炭礦(株)湯本礦になったとの由です。大日本炭礦(株)は第一次世界大戦の戦争景気で業容拡大しましたが、その反動の不景気で経営が苦しくなったとの由です。このために大日本炭礦(株)は鉱区を委託化や売却せざるを得なくなり、結局、大日本炭礦(株)湯本礦は大正10年(1923年)に三井鉱山(株)(今日の日本コークス工業 移(株))に委託された後に、大正14年(1925年)に三井鉱山(株)に売却されたとの由です。ところが、三井鉱山(株)湯本礦は、昭和5年(1930年)7月25日に発生した突然の熱出水のため、閉山に追い込まれたとの由です。
おやけ こういち「温泉レジャー施設の「地霊」 −熱水で結ばれた三井礦山湯本礦と常磐ハワイアンセンター−」『常磐炭田史研究 第7号』(常磐炭田史研究会(いわき石炭・化石館内)発行,2010)pp.38-48によれば(注1)、三井鉱山(株)湯本礦跡地の鉱区が常磐炭礦(株)所有になった経緯は、昭和6年(1931年)の満州事変で景気が上昇したことに伴う石炭需要増加によるものであったとの由す。昭和9年(1934年)に磐城炭礦(株)が双方の資本(注2)で第二磐城炭礦(株)を設立し、旧三井鉱山(株)湯本礦よりも熱水出水リスクが少ない、やや北方の既存の長倉坑付近で開坑したとの由です。第二磐城炭礦(株)は昭和13年(1938年)に磐城炭礦(株)に吸収されて長倉坑と称されるようになった後、昭和19年(1944年)3月の入山採炭(株)と磐城炭礦(株)の企業合併に伴い、常磐炭礦(株)磐崎礦長倉坑になったとの由です。常磐炭礦(株)磐崎礦の場所は、磐崎礦本坑斜坑坑口の場所(地図(この辺り?))(注3)をはじめ、おやけ こういち「前掲文献」によれば、いわき市大字(おおあざ)常磐藤原町字(あざ)斑堂からいわき市大字常磐上湯長谷町字梅ケ平にかけての地域にありましたが、炭鉱住宅(炭住)や厚生施設はいわき市大字常磐藤原町字源内やいわき市大字常磐藤原町字蕨平に設けられていたとの由であり、この炭住地域の場所は三井鉱山(株)湯本礦跡地であり、その炭住地域の一部は、今日のスパリゾートハワイアンズの駐車場になっているとの由です。なお、当然、今日のスパリゾートハワイアンズも三井鉱山(株)湯本礦跡地にあります。その後の常磐炭礦(株)磐崎礦長倉坑については、昭和27年(1952年)に租鉱権を設定する形で、常磐炭礦(株)の100%子会社の長倉炭礦(株)に移行した後、昭和37年(1962年)3月には鉱業権を取得する形で独立した上で、同年9月に閉山したとの由です。この閉山方式は、資源エネルギー庁資源・燃料部石炭課監修石炭政策史編集委員会編『石炭政策史【資料編】』(財団法人石炭エネルギーセンター発行,2002)では「買収方式」による閉山炭鉱リストのp.125に長倉の名が載っていることから分かるとおり、石炭鉱業合理化臨時措置法に基づいて、石炭鉱業合理化事業団(後の新エネルギー・産業技術総合開発機構(略称:NEDO(ネド)))石炭鉱業構造調整事業本部(注4))が昭和31年(1956年)〜昭和38年(1963年)に行った「炭鉱買収(買収方式)」に基づく閉山です。浪江森林鉄道〜古の鉄道を訪ねて〜 ・ 常磐炭鉱専用鉄道 向田線によれば、いわき市常磐上湯長谷の磐崎礦業所の積込場(ホッパー)(地図)と選炭場(この辺り(地図(第1候補)?,地図(第2候補)?))(注5)が使われたのは昭和37年(1962年)までのことであり、同年以降は磐崎坑(地図)と常磐炭礦(株)湯本礦第五坑(地図)(注6)、第六坑(地図)を地下の坑道でつないて、石炭を西部斜坑石炭積出坑口(地図)まで運んでいたとの由です。このことはタイミング上、上記の長倉炭礦(株)閉山時期と平仄(ひょうそく)が合っています。この西部斜坑石炭積出坑口について詳しくは、当ページ(当画面)後方(下方)の「常磐炭礦(株)閉山の過程(その2:西部礦業所閉山)」欄で解説します。
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<石炭産業の斜陽化と経営多角化(スパリゾートハワイアンズの設立)> しかし、昭和20年代(1945〜1954年)の太平洋戦争の戦後の日本の復興に基幹産業として大きく貢献した石炭産業も、常磐炭田史研究会事務局(巡検委員会)編『常磐炭田巡検資料集成<その1>』(常磐炭田史研究会,2010年3月)p.16にも載っているとおり(注1)、石油との競合に負けて、衰退産業化してしまいました。また、常磐炭田史研究会編『いわきの産業遺産ガイド ヘリテージツーリズムへの誘い』(いわきヘリテージツーリズム協議会発行,2011年改訂版)p.55、(注2)、このため、昭和35年(1960年)に石炭合理化事業団(注3)が発足して、「生産性が低い炭鉱を閉山する傍ら、生産性が高い炭鉱を新規開発する」旨の「スクラップ&ビルド政策」が開始され、昭和37年(1962年)には原油の輸入自由化が始まったとの由です。『常磐炭田巡検資料集成<その1>』p.16、ならびに常磐興産(株) ・ 会社の沿革によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、石炭産業が斜陽産業化・衰退産業化していく過程で、経営多角化によるサバイバル(生き残り)を目指して昭和39年(1964年)9月に常磐湯本温泉観光(株)を設立し、同社運営による常磐ハワイアンセンター(今日のスパリゾートハワイアンズ)を昭和41年(1966年)1月に、今日の用語で申せば企業内起業(コーポレート・ベンチャー、イントラプラナー)の手法で創業・開業したとの由です。昭和45年(1970年)に労使運営協議会で石炭産業の分離・独立を協議したとの由です。この結果、同年5月に、商号を従来の常磐炭礦(株)から常磐興産(株)に変更した上で、石炭部門を常磐炭礦(株)として分離させて、また、常磐ハワイアンセンター(今日のスパリゾートハワイアンズ)を運営する常磐湯本温泉観光(株)を合併して、同センターの営業を継承し、直接運営することになったとの由です。
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<常磐炭礦(株)閉山の過程(その1:中郷礦閉山)> 野木和夫「常磐炭田南部地区の巡検について」『常磐炭田史研究 第7号』(常磐炭田史研究会(いわき石炭・化石館内)発行,2010)pp.18-20.(注1)、ならびにフクダジマ探検記 ・ 中郷鉱(三坑)によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、常磐炭礦(株)は、主力の常磐炭礦(株)磐城礦業所の閉鎖を発表しました。この背景には、特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)西部鉱業所によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、大気汚染等の公害問題が課題になっていた当時、常磐炭礦(株)磐城礦業所で出炭される石炭には硫黄分が多く含まれていたため、引き取り拒否にあって販路開拓ができなかったという事情もあるとの由です。丁度同年、茨城県 ・ 北茨城市にあった常磐炭礦(株)中郷礦(地図(この辺り))で、既に掘り尽くした山側の代わりに太平洋側に掘り進めるべく大規模投資した中郷新坑で、優良な炭層に遭遇できたため、中郷礦での採炭に会社の採炭事業の命運を賭けていたとの由です。ところが、いよいよ本格的に採炭が始まるという矢先の昭和46年(1976年)8月16日、突然の大出水に襲われた結果、必死の排水作業にもかかわらず切羽(きりは)が水没してしまったとの由です。このため中郷礦は閉山に追い込まれてしまい、百名以上の失業者(炭鉱離職者)を出さざるを得なくなってしまったとの由です。この影響のため、元常磐炭礦(株)西部礦業所採炭課長の佐久間宏殷(さくま ひろたか)氏による佐久間宏殷「採炭員の気迫」『常磐炭田史研究 第7号』pp.13-17.によれば、このためやむを得ず、当初は「中郷礦がある旨を前提として2年間程掘ったら閉山する予定だった」西部礦業所に採炭事業の存続を書けざるを得なくなり、常磐炭礦(株)の坑道掘り採炭事業の末期の採炭作業は、この西部礦業所で行われることになったとの由です。特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)西部鉱業所によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、西部礦業所とは、昭和31年(1956年)に常磐炭礦(株)が発表した「東西計画」に基づくものとの由です。即ち、同年時点で福島県いわき市で採炭していた常磐炭礦(株)の各個別炭鉱の内、湯本礦(地図)・鹿島礦(地図)(注2)・内郷礦(地図)を東部、磐崎礦(地図(この辺り))、新磐崎礦を西部と東西に分けて、複数の個別炭鉱のを集約していくというものです。このことのメリットは、例えば、その中の内容の内の「西部の選炭場を湯本礦に集約する(注3)」という内容は、磐崎礦と新磐崎礦の選炭場を廃止できるということであり、これによって選炭場維持のための固定費用(固定コスト)を削減できるという効果が想定可能です(注4)。特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)西部鉱業所によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、なお、中郷礦出水事故以前は西部礦業所を2年で閉じる予定だった理由は、逆に申せば本来の閉山年よりも2年間延命させた理由は、磐城礦業所閉山に伴う失業者大量発生の激変緩和のためであったとの由です。
<常磐炭礦(株)閉山の過程(その2:西部礦業所閉山)> 上記のとおり、当初想定外の中郷礦閉山により、「延命」どころか本拠地として西部礦業所での採掘を続けて行かざるを得なくなったため、特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)西部鉱業所によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、会社を分離させていた常磐西部炭鉱を急きょ常磐炭礦(株)は吸収したとの由です。西部礦業所ができた計画の源流は上述のとおり昭和31年(1956年)にまで遡(さかのぼ)りますが、佐久間宏殷「採炭員の気迫」『常磐炭田史研究 第7号』(常磐炭田史研究会(いわき石炭・化石館内)発行,2010)pp.13-17.によれば(注)、西部礦が発足したのは昭和46年(1971年)5月8日、西部礦業所と命名されたのは同年11月のこととの由です。このタイミングについての謎については恐らく、確認未済の推測も入りますが、昭和31年(1956年)から昭和46年(1971年)までの間に、昭和31年(1956年)時点での西部に属していた磐崎礦が上述のとおり既に閉山してしまっており、かつ、その閉山手順が国の政策に基づく「炭鉱買収(買収方式)」であったために、かつての磐崎礦の鉱区の鉱業権は既に国に移ってしまっていたため、旧磐崎礦所在地の再開は「あり得ない」状況だったからであろう、と推測します。当初は2年間で閉山予定だった炭鉱に新規投資することは、減価償却期間や、「2年間の期待収益の割引現在価値で投下資本を吸収できるか」等の見地に基づけば想定し難いので、恐らくは西部礦業所とは、前述の新磐崎礦が西部礦業所に転じたのであろうと推測しますが、調べてみても確認できませんでした。なお、西部礦業所の場所についての推測は、次々段落以降で後述します。
常磐炭礦(株)西部礦業所での採炭は元々劣悪な環境のものでもあり、佐久間宏殷「採炭員の気迫」『常磐炭田史研究 第7号』(常磐炭田史研究会(いわき石炭・化石館内)発行,2010)pp.16-17.によれば、昭和48年(1973年)5月29日に西部立坑々底火災、昭和50年(1975年)5月31日に七斜坑・二号払切羽(きりは)より出水、昭和50年(1975年)7月6日に600m電車坑連坑崩落による溢水事故、と事故が相次ぎいだとの由です。特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)西部鉱業所によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、揚水量は昭和46年度(1971年度)の年間1,600万uから昭和50年度(1975年度)には2,900uにまで上昇したとの由であり、坑内の白鳥ポンプ座での排水量の限界値・毎分50uをもってしても水位の上昇を防げなくなった上に、排水設備の老朽化のために保安上の保証も不可能な状態に陥ったとの由です。この出水状況は量だけでなく水圧の上でも異常な状態をもたらし、佐久間宏殷「採炭員の気迫」『常磐炭田史研究 第7号』p.17.によれば、閉山時の600m電車坑の水圧は10kg/cmにまで到達していたとの由です。このため、特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)西部鉱業所によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、昭和51年(1976年)6月28日に会社が組合に閉山を提案し、同年7月31日の労使協定調印でもって閉山が決定したとの由です。採炭終了日と最終撤退日が特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)西部鉱業所による「終掘8月31日、前面撤退9月30日」という日付は、佐久間宏殷「採炭員の気迫」『常磐炭田史研究 第7号』p.17.とで異なっているのですが、佐久間宏殷(さくま ひろたか)氏が元常磐炭礦(株)西部礦業所採炭課長という、このテーマの正に現場指揮官であった旨に鑑(かんが)みて佐久間の文章記載内容の方を採用するとすれば、昭和51年8月28日に二番方にて採炭が終了し、同年10月29日に退山が完了したとの由です。この閉山をもって、常磐炭田の坑道掘り採掘の歴史は終わりました。
常磐炭礦(株)西部礦業所はどこにあったのでしょうか?後述するとおり、この常磐炭礦(株)西部礦業所にあった竪坑櫓はいわき市石炭・化石館 ほるるに移設されて現在では産業遺産がその場所にないこともあり、産業遺産観光関連の本やパンフレットにも、2012年9月現在、炭礦跡地訪問ホームページの類にも、西部礦業所の場所についての記載は載っていません。正確には定かではありませんが、推測は可能です。昭和48年(1973年)5月29日に発生した常磐炭鉱坑内火災に関して、「参議院商工委員会石炭対策に関する小委員会議事録・第3号 昭和48年6月18日」には「所在地は福島県いわき市渡辺町」とあり、また、「JLogos | 日外アソシエーツ「災害史事典(昭和)」 | 48年 | |【常磐炭鉱坑内火災(福島県いわき市)】」には、「福島県いわき市渡辺町泉田二又」とあります(いずれも、リンク先URLは2012年9月現在)。@nifty ・ @nifty地図いつもガイドの「福島県いわき市渡辺町泉田」には、「字(あざ)に「二又」というのはありませんが代わりに「二タ又」があり、その場所はリンク先地図のとおりです。字だけでは地番が不明で具体的な場所が特定化し難いのですが、同じく「二タ又」の字が表記されている近くの場所に、「常磐興産開発事業部食品リサイクル実証試験所」の建屋がある一連の地域が、リンク先地図のとおり、存在します。この地域のすぐ東側に「いわき中部工業団地」がありますが、炭鉱跡地に工業団地が造られるのはよくある話である旨に併せて鑑みれば、「常磐興産開発事業部食品リサイクル実証試験所」の建屋がある一連の地域と、その東側の現・いわき中部工業団地辺りの一帯が、常磐炭礦(株)西部礦業所であった可能性は高いと推測します。ただし、これは推測ではあっても、確認した上での事実ではありません(誤解を避けるべく、念のため)。 常磐炭礦(株)西部礦業所は、現在の感覚で考えると、想像以上に長いと言うか、広いものであった模様です。平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では、常磐炭礦跡地の通気口竪坑から温泉が湧き出た事件があり(リンク先URLは2012年9月現在)、その模様はYouTubeにも、2011年6月16日 大きな余震で常磐炭鉱の通気孔から温泉(1), 2011年6月16日 大きな余震で常磐炭鉱の通気孔から温泉(2) , 2011年6月16日 大きな余震で常磐炭鉱の通気孔から温泉(3) 等の動画が載っています。この現場は、「地震以降、旧常磐炭鉱立坑から溢れている温泉 : いわき湯本温泉といわき市の観光・イベント・地域・歳時記」によれば「いわき市泉町玉露7丁目地内の常磐興産管理地」にあり、そこは「いわき市で余震の後、温泉湧き出る。 - 地球探検の旅」によれば、JR泉駅近くのこの場所(地図)になります。この場所(地図)については、「温泉噴出の場所に|〜Going My Railway〜【我が鉄路を行く】」には「常磐炭鉱西部鉱業所」という記載があります。また、菅波 普「「東日本大震災」及び誘発地震による常磐炭田関連遺産の被害調査について」『常磐炭田史研究 第8号』(常磐炭田史研究会(いわき石炭・化石館内)発行,2011),pp.8-9によれば(注)、泉玉露にある西部炭礦泉竪坑跡(立坑跡)が現場との由です。この泉立坑は、佐久間宏殷「採炭員の気迫」『常磐炭田史研究 第7号』(常磐炭田史研究会(いわき石炭・化石館内)発行,2010)pp.13-17.によれば(注(再掲))、入気坑であったとの由です。また、佐久間宏殷「採炭員の気迫」『常磐炭田史研究 第7号』p.15掲載の「図2 西部炭礦坑内図」によれば、西部礦業所の基幹坑道の斜坑は、この泉立坑(地図)から北方に竪坑櫓があった西部礦業所を経て、さらにその距離の1.5倍前後の長さで北に続いていた旨が分かります。当ページ(当画面)上方の「現在のスパリゾート・ハワイアンズの場所の過去の姿」欄で述べたとおり、磐崎坑(磐崎礦,地図)等の西部の礦業所の地下坑道は、湯本礦地域にあった西部斜坑石炭積出坑口と地下でつながっていたとの由ですが、この北方に延びた先がそうであったのではないか、と私は推測します(注:推測であり、確認した上での事実ではありません。誤解を避けるべく念のため)。この「西部斜坑石炭積出坑口」は、浪江森林鉄道〜古の鉄道を訪ねて〜 ・ 常磐炭鉱専用鉄道 向田線, 常磐炭礦最後の日々。(上) - 編集長敬白アーカイブ, フクダジマ探検記 東部鉱(湯本坑)等によれば、いわき市石炭・化石館 ほるるの北側の駐車場の奥のこの位置(地図)にある斜坑坑口跡がそうであるとの由であり、この駐車場がいわき市石炭・化石館 ほるると常磐興産(株)のいずれの駐車場であるのか存じ上げないので部外者が近寄れるか否かは不明ですが、今日(私が訪問した2012年9月16日(日)現在)でも、いわき市石炭・化石館 ほるる敷地内のウッドピアいわき(フラガール資料館)外側の岩石園(地図)から、遠望することはできます。泉立坑(地図)から西部斜坑石炭積出坑口(地図)まで基幹坑道が続いていたことになりますので、常磐炭礦(株)西部礦業所の規模の大きさ(長さ)は凄いものであった旨が分かります。
<常磐炭礦(株)閉山の過程(その3:中郷礦露天鉱の閉山)> 常磐炭田史研究会編『いわきの産業遺産ガイド ヘリテージツーリズムへの誘い』(いわきヘリテージツーリズム協議会発行,2011年改訂版)pp.54-55(注1)や特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)中郷露天鉱の解説によれば、常磐炭礦(株)は、西部礦業所閉山で坑道掘り炭鉱が全て閉山した跡でも、中郷礦で露天掘り採掘は行っていたとの由ですが、残念ながらこの露天鉱も、昭和60年(1985年)3月に閉山になったとの由です。露天掘りの場合には坑道掘りとは異なり、国の政策による補助が無くても自力で採算が取れますので、業界事情に詳しい方は「露天掘りも?」と疑問に思うかも知れません。特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)中郷露天鉱の解説によれば、実際、昭和59年度(1984年度)には黒字採炭だったとの由です。黒字採炭の翌年に閉山になってしまった理由は、前述参照先ホームページによれば、次期採炭予定地での地主との交渉の行き詰まりと、主力採炭現場での揚排水が困難になったこと、等の理由によるものとの由です。この中郷礦露天鉱の閉山によって、坑道掘り炭鉱だけでなく露天掘りも含めて、常磐炭田における採炭(採掘)の歴史は完全に終了しました。この中郷礦露天鉱の場所は、調べてみても、よく分かりませんでした。「どのような状況で分からないのか」について詳述すれば、特殊個人 日本石炭公団 ・ 常磐炭礦(株)中郷露天鉱の解説によれば、常磐炭礦(株)茨城礦業所事務所の北西約500mの場所であり、かつて昭和21年(1946年)までこの地で採炭を行っていた旧足田炭鉱の跡地であるとの由ですが、それよりも詳しい位置情報はインターネット上で検索されませんでした。また、当ページ(当画面)別段落で上述したとおり、(規模の経済性(スケール・メリット)が効かない中小炭鉱も含めて)露天掘り炭鉱は、坑道掘り炭鉱とは異なり採算が取れてしまうこともあり、石炭鉱業構造調整臨時措置法に基づく「産業政策としての石炭政策」の末期の具体的な施策内容の対象外でした(注2)。このため、例えば、「産業政策としての国の石炭政策」に関してまとめた資料である資源エネルギー庁資源・燃料部石炭課監修石炭政策史編集委員会編『石炭政策史【資料編】』(財団法人石炭エネルギーセンター発行,2002)p.145の昭和48年(1973年)以降の閉山炭鉱リストの表にも、中郷礦露天鉱についての情報は載っていない等、手元に収集した文献にも載っていませんでした。なお、中郷礦露天鉱についての情報が『石炭政策史【資料編】』に載っていないということは言い換えれば、「中郷礦は、坑道掘り炭鉱閉山時には石炭鉱業構造調整臨時措置法に基づくスキームに則って閉山したが、露天鉱閉山時には石炭鉱業構造調整臨時措置法に則っての閉山ではなかった」ということを意味します。
<いわき石炭・化石館の概要・(その1:沿革)> いわき市石炭・化石館 ほるるは福島県いわき市にある博物館で、常磐炭田の産炭地としての資料と、市内で発掘される化石とを併せて展示する施設として、昭和59年(1984年)10月18日に開館した、博物館です。ジャンルとしては、産業遺産/産業技術と科学(の中の古生物学)に関する博物館です。平成元年(1989年)に、2012年9月の私の訪問時現在、「フラガール資料館」として使われている、モデル木造建築の別棟「ウッドピアIWAKI(ウッドピアいわき)」が建設されました。リニューアルのために一時期休館していましたが、平成22年(2010年)4月22日にリニューアル・オープンし、その際、全国公募によりよって決まった愛称「ほるる」が施設名に付きました。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ いわき市石炭・化石館によれば、このリニューアル・オープンにおいては、展示の工夫(展示物の配置や照明)だけでなく、エレベーターの増設やバリアフリー化等の改善が行われたとの由です。ミュージアム情報ポータルサイト「インターネットミュージアム」 ・ 東日本大震災・ミュージアム関連情報サイト・MUSEUM ACTION(ミュージアムアクション) ・ いわき市石炭・化石館 ほるるによれば、平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)と、その余震という位置づけとは申せマグニチュード7.0の、それだけ単体で取り出しても大地震であった同年4月11日の福島県浜通り地震のダブル・パンチで館内展示品が破損して修理が必要になったために約4ヶ月間の休館を余儀なくされたとの由ですが、無事に、平成23年(2011年)年7月20日に再オープンにこぎ着けたとの由です。 <いわき石炭・化石館の概要・(その2:石炭)> いわき市石炭・化石館 ほるるには竪坑櫓(立坑櫓;たてこうやぐら)があります。この竪坑櫓は、元々は上述の常磐炭礦(株)西部礦業所にあったもので、いわき市石炭・化石館 ほるるに移設して保存されているものです。この竪坑櫓は、経済産業省が平成19年(2007年)11月30日に認定した、近代化産業遺産33件(注)の中の一つです。この近代化産業遺産33件では、近代化産業遺産がストーリーごとに33件の近代化産業遺産群に分類されていますが、経済産業省ホームページ ・ 平成19年度経済産業省 近代化産業遺産認定遺産リスト(PDF版)によれば(リンク先URLは2012年9月現在)、「常磐鉱工業」というストーリーの近代化産業遺産群の「常磐炭田関連遺産」の中で、「常磐炭礦西部礦竪坑櫓」の名で認定されています。この「常磐鉱工業」の近代化産業遺産群の「常磐炭田関連遺産」にはこの他、湯本地区では「常磐炭礦磐崎礦坑口(地図(この辺り?))、石炭積込場(地図)、選炭場跡(この辺り(地図(第1候補)?,地図(第2候補)?))、ズリ山他」、「常磐炭礦湯本山神社(地図)」、「常磐炭礦湯本坑第六坑坑口(地図)」、「砿夫の像(鉱夫の像;いわき市石炭・化石館 ほるる入り口脇(館外))」、「いわき市石炭化石館内展示(坑口銘板、採炭機械、道具類)」が認定されています。いわき市石炭・化石館 ほるるは、常磐炭礦(株)湯本礦の跡地にありますので、上述の近代化産業遺産の内、前述の竪坑櫓や博物館として館内展示している前述の「坑口銘板、採炭機械、道具類」だけでなく、「常磐炭礦湯本坑第六坑坑口(地図)」も敷地内館外展示エリア「昭和の杜六坑園」で公開されている他、上述のとおり敷地内のウッドピアいわき(フラガール資料館)外側の岩石園(地図)から、西部斜坑石炭積出坑口(地図)を遠望することができます。館内展示には模擬坑道展示もあり、また、当時の炭住(炭鉱住宅)の状況を示した「生活館」もあります。模擬坑道では、ドラムカッターを用いての現代的採炭方法の様子等が展示されています。ドラムカッターと自走枠は屋外展示場でも展示されている他、屋外展示場にはこの他、コンティニアスマイナー、掘った跡を埋め戻すための充填機、電気機関車等の採炭・運炭機械や、坑口の銘板も展示されています。
<いわき石炭・化石館の概要・(その3:化石)> 福島県いわき市は化石の宝庫でもありますので、いわき市石炭・化石館 ほるるでは化石の展示も行われています。古生代の三葉虫、中生代 ・ 白亜紀の首長竜 ・ フタバスズキリュウ(学名:Futabasaurus suzukii(フタバサウルス・スズキイ))、新生代 ・ 第三紀のイワキクジラ(鯨)やステゴロフォドン(イワキゾウ(像))等、福島県いわき市で発掘された化石や、そのレプリカが展示されています。また、福島県いわき市で発掘された化石以外にも、その近縁種など関連のある他の地域で発掘された化石や、そのレプリカが展示されています。 <いわき石炭・化石館の概要・(その4:ウッドピアいわき フラガール資料館)> いわき市石炭・化石館 ほるる敷地内の別棟の屋外施設「ウッドピアいわき(地図)」は、2012年9月現在、フラガール資料館になっています。「ウッドピアいわき(地図)」は、建物自体が、いわき市の豊富な木材資源や、木材の良さをPRするための展示物であるとの由です。リニューアル・オープン時に上述のとおり、日本中に感動を与えた映画・舞台のフラガールの資料館になったとの由で、フラガールの映画や舞台の台本や衣装、舞台のセット等が展示されています。
なお、2012年11月参照時時点で、いわき石炭・化石館 ほるる 公式WEBサイトには、「当館のウッドピアは10月中旬より改修工事のため利用できなくなります。」という文章が載っています。2012年10月以降、工事が終わるまでの間は、ウッドピアはご利用不可能との由です。工事終了後のウッドピアが、上述のようなフラガールの資料館であるのか、それとも異なる展示が行われるようになるのかは、不明です。 <いわき石炭・化石館の概要・(その5:放射線量測定値について)> 以降の数段落では、この場所を訪れても放射線被爆について心配する必要性は無い旨について、解説します。(注)
2012年現在、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)に伴う福島第一原子力発電所事故の影響を危惧する方がおられるかも知れません。ですが、過度に危惧して、本来ならば被害に遭わずに済んだはずの人達を風評被害に遭わせてしまう必要性はないと思います。いわき市石炭・化石館 ほるるでは、2012年11月現在、いわき石炭・化石館 ほるる公式WEBサイト ・ いわき市石炭・化石館 放射線量測定値で、敷地内の放射線量を公開しています。例えば地上1m地点の10月29日の値では、場所にもよりますが0.07〜0.18μSv/hであり、これは東京都健康安全研究センター ・ 大気中の放射線量/地表土から高さ1mでの測定結果(新宿)によれば、新宿の同じ日の10:00〜10:59の数値は0.06μGy/hであり、「1グレイは1シーベルトに換算できます」との由ですのでこれは0.06μSy/hと見なすことが可能ですが、いわき市石炭・化石館 ほるるの最高値の場所の0.18μSv/hは新宿よりも高いものの、最低値の場所の0.07μSv/hは新宿とほぼ同じであり、余り大差ありません。放射線量については、「専門知識が無いから分からない」と思ってしまう方もおられますが、素人でも簡単に「事実を基にして状況を判断可能」な考え方がありますので、以下に解説します。いわき市石炭・化石館 ほるるの最高値0.18μSv/hは年間では、0.18μSv/h×24h×365日=1,576.8μSv=1.5768mSvになりますが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ・ シーベルトによれば自然放射線の世界平均は2.4mSv=2,400μSvであり、なんと、いわき市石炭・化石館 ほるるの中で最も高い値でも、世界平均の65.7%でしかありません。世の中に自然放射線がある以上は放射線量がゼロの場所などこの世に存在しないことと、「自然放射線で生存に耐えられないようであれば、数億年の間に生物が生き延びて来られるはずはないため、世界平均での自然放射線を超えなければ案ずるに及ばない」旨とに併せて鑑(かんが)みれば、いわき市石炭・化石館 ほるるの放射線量については、「値がゼロではないからといって恐れる必要性は無い」ですし、館内の最高値でさえも自然放射線の世界平均値の65.7%ですので、(今後想定外のさらなる大事故が起きない限り)心配には及ばない旨が分かります。上記(左記)の太字で書いた考え方が、素人でも簡単に類推可能な考え方です。いわき市石炭・化石館 ほるるでの放射線量が自然放射線の世界平均値の65.7%であるということは、(今後想定外のさらなる大事故が起きない限り)いわき市石炭・化石館 ほるるは海外旅行よりも安全だと言うことができる、ということになります。 それでも、子供への影響が心配だというお父様、お母様はおられるかもしてませんが、(今後想定外のさらなる大事故が起きない限り、)結論から先に申せば、その心配は過剰な心配であると私は思います。佐藤健太郎『 「ゼロリスク社会」の罠 「怖い」が判断を狂わせる』(光文社新書,2012)pp.224-227によれば、「子供が大人よりも危ない」という巷間言われている現象の発生メカニズムは、特に放射性物質 ・ ヨウ素131で申せば、ヨウ素131が甲状腺に集まり易い性質を持つことと、子供の方が大人よりも細胞分裂が激しいために放射線被爆によるDNAのミス・コピーが起きやすくなってガンの発生確率が上がるからこととのAND条件(合わせ技)です。ところが、ヨウ素131の半減期は8日程度と短いため、福島第一原子力発電所事故から1年以上が過ぎた現時点ではほとんどなくなっているため、ヨウ素131による放射線被曝は、(今後想定外のさらなる大事故が起きない限り、)心配する必要性はほとんどありません。厄介なのは、半減期が約30年と長く、かつ水溶性の化合物となり易いために体内に吸収され易いセシウム137です。セシウム137はヨウ素131とは異なり甲状腺に集まり易くはなく、また、もしも万一体内に吸収してしまった場合の尿の排泄等によって体外に出て行くまでの間の生物学的半減期は70〜100日であるため、余程大量に体内吸収してしまわない限り、体外排出については、時間が解決してくれることが可能な物質でもあります。大量に体内に吸収してしまえば被害はあるとは申せ、そのような事態が生じるリスクについて申せば、セシウム137は水溶性の化合物となり易い性質を持つ元素(げんそ)であるので、地上の土や埃(ほこり)と固着している場合が多く(注)空気中を漂う量は少ないですので、上述のとおり地上1mの放射線量が自然放射線よりも少ない状況下では、(今後想定外のさらなる大事故が起きない限り、)呼吸による体内吸収については、心配する必要性はないのではないか、と思います。何回でも繰り返しますが、地上1mの放射線量が自然放射線よりも低いということは、呼吸による放射性物質の体内吸収や空気による放射線被爆に関しては、(今後想定外のさらなる大事故が起きない限り、)いわき市への旅行は海外旅行よりも相対的に安全であると言うことができるということです。
なお、上述の「セシウム137は水溶性の化合物となり易い性質を持つため、地上の土や埃(ほこり)と固着している場合が多い」という点については、いわき市ホームページ ・ いわき市除染実施計画の策定についてによれば(注)(リンク先URLは2012年12月現在)、剪定、除草、雨どい清掃、表土除去、アスファルト継ぎ目やひび割れのブラッシング、側溝清掃、常緑樹の枝葉剪定、落葉樹の落葉・腐敗土回収等の除染作業を、計画的に行っているとの由です。したがって、いわき市では、セシウム137の土壌汚染についても、キチンと対応されています。
東北に行かれる場合には食材についてご心配な方も多いと思いますが、放射線については出荷前に検査をキチンと受けた上で出荷していますので、ご安心下さい。福島県全般やいわき市について申せば、福島県ホームページ, いわき市ホームページで放射線測定状況について情報公開している他、いわき市役所では「いわき見える化プロジェクト 見せます!いわき情報局」ホームページで情報公開していますので、これらのリンク先で放射線測定状況について、ご参照いただけます。
繰り返しになりますが、地上1mの空気の体内吸収について述べれば、福島第一原子力発電所事故の影響で仮に平時よりも放射線量が高いと想定してさえも、上述のとおり自然放射線の世界平均の65.7%と、世界平均よりも破格に低い状況であることと併せて考えれば、(今後想定外のさらなる大事故が起きない限り)いわき市石炭・化石館 ほるるは海外旅行よりも安全だと言うことができる、と思います。 なお、余談ながら、世間ではよく「放射能漏れ」の語が使われますが、この語は誤りです。その理由は、放射能とは放射線を出す能力や性質のことだからであり、性質は漏れたり漏れなかったりするものではないからです。漏れたり漏れなかったりするのは放射線や放射性物質なのであり、放射能は漏れたり漏れなかったりは、いたしません。したがって、「放射能漏れ」という言い方は、言葉の誤用です。
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横浜の温泉 | 横浜みなとみらい万葉倶楽部 |
横浜温泉 | 綱島温泉・綱島ラジウム温泉東京園 |
横浜温泉 | 綱島温泉・富士乃湯 |
横浜温泉 | 天然温泉みうら湯弘明寺店 |
横浜温泉 | 若宮湯 |
横浜温泉 | 中島館 |
横浜の大浴場付きホテル | ブリーズベイホテル・リゾート&スパ,& リゾートカプセル桜木町 |
東京都の温泉 | 麻布十番温泉 (注) 残念ながら2008年3月末で廃業しました。 |
東京都の温泉 | 東京ドーム天然温泉 Spa LaQua(スパ ラクーア) |
川崎温泉 | 縄文天然温泉 志楽の湯 |
福岡市内温泉 | 薬院しろやま乃湯 (注) 残念ながら閉館しました。 |
福岡市内温泉 | 萃豊閣ホテル&南福岡グリーンホテル温泉 |
福岡市内温泉 | 八百治博多ホテル・八百治の湯 |
人吉市内の温泉 | 球磨川ラフティング MAIN STREAM & ビジネスホテル白山山荘 附属温泉 |
高知の温泉 | 龍河温泉(香美市) |
高知の温泉 | 物部川ほとりの温泉 夢の温泉(香美市) |
高知の温泉 | 高知黒潮ホテル・黒潮温泉「龍馬の湯」(香南市) |
高知の温泉 | 高知三翠園・高知三翠園温泉水哉閣(高知市) |
高知の温泉 | スーパーホテル高知・長岡温泉・龍馬の湯(高知市) |
高知の温泉 | 国民宿舎 桂浜荘(高知市桂浜:人工温泉) |
札幌市内温泉 | JRタワーホテル日航札幌・スカイリゾートスパ「プラウブラン(月の島)」 |
札幌市内温泉 | ホテルモントレエーデルホフ札幌・スパ |
大阪市内温泉 | スーパーホテルCity大阪天然温泉(なにわ天然温泉「花乃井」) |
大阪市内温泉 | ホテル阪神「徳次郎の湯」(天然温泉スパ&サウナ) |
大阪市内温泉 | 天然温泉なにわの湯 |
大阪府・箕面温泉 | 箕面温泉スパーガーデン |
秋田県の温泉 | 乳頭温泉郷・鶴の湯温泉 |
宮城県の温泉 | 鳴子温泉・貸切露天風呂の宿扇屋 |
福島県の温泉 | スパリゾートハワイアンズ |
山梨県の温泉 | 下部温泉郷・古湯坊源泉館 |
山梨県の温泉 | 下部温泉・くつろぎの宿裕貴屋(旧・大市館) |
長野県の温泉 | 奥蓼科温泉郷 渋御殿湯 |
長野県の温泉 | 明治温泉旅館 |
長野県の温泉 | 毒沢鉱泉神乃湯 |
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「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」の訪問記or体験記 | |
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地域 | 訪問or体験した観光地orスポット |
鹿児島県全体 | 鹿児島の芋焼酎が楽天市場で買える鹿児島県内店(リンク先は当HP管理人のブログ・カミタク・ブログの記事。) |
鹿児島市内(含む桜島) | 九州新幹線 |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島市電 (鹿児島市電については、当HP管理人の別サイト・鉄道艦船航空陸自マニアでも、鹿児島市交通局として紹介されています。) |
鹿児島市内(含む桜島) | カゴシマシティビュー乗車記(鹿児島市内観光地周遊バス) |
鹿児島市内(含む桜島) | 尚古集成館(島津斉彬公による我が国初の洋式工業団地・集成館事業の産業遺産) |
鹿児島市内(含む桜島) | 島津家別邸:名勝 仙巌園(磯庭園) |
鹿児島市内(含む桜島) | 猫神神社(+猫グッズ専門店「猫屋」) |
鹿児島市内(含む桜島) | 磯工芸館(旧島津家吉野植林所) |
鹿児島市内(含む桜島) | 薩摩ガラス工芸(薩摩切子)工場見学 |
鹿児島市内(含む桜島) | 磯くわはら館(旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所建物のレストラン) |
鹿児島市内(含む桜島) | 異人館(旧鹿児島紡績所技師館) |
鹿児島市内(含む桜島) | caf'e潮音館(旧・重富島津家別邸米蔵の石蔵のカフェ:田之浦潮音館) |
鹿児島市内(含む桜島) | 城山(城山展望台) |
鹿児島市内(含む桜島) | 鶴丸城(鹿児島城) |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島県歴史資料センター黎明館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 薩摩義士碑 |
鹿児島市内(含む桜島) | 大中寺(薩摩義士の墓) |
鹿児島市内(含む桜島) | 平田公園(平田靱負屋敷跡&平田靱負銅像) |
鹿児島市内(含む桜島) | 西郷隆盛銅像 |
鹿児島市内(含む桜島) | 大久保利通銅像 |
鹿児島市内(含む桜島) | 維新ふるさと館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 東郷平八郎誕生地 |
鹿児島市内(含む桜島) | 甲突川河畔(桜のお花見&歴史散策) |
鹿児島市内(含む桜島) | 示現流兵法所史料館(示現流史料館) |
鹿児島市内(含む桜島) | 天璋院篤姫の生家・今和泉島津家本邸跡 |
鹿児島市内(含む桜島) | 南洲神社・南洲墓地 |
鹿児島市内(含む桜島) | 西郷南洲顕彰館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 西郷洞窟 |
鹿児島市内(含む桜島) | 福昌寺跡(島津家墓地) |
鹿児島市内(含む桜島) | 照国神社と六月灯 |
鹿児島市内(含む桜島) | 探勝園跡(島津三銅像〜照国神社脇の島津斉彬公像,島津久光公像,島津忠義公像〜) |
鹿児島市内(含む桜島) | 荒田八幡宮と六月灯 |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島市立美術館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 長島美術館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 陽山美術館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 児玉美術館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 三宅美術館 |
鹿児島市内(含む桜島) | かごしま近代文学館・かごしまメルヘン館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島県立博物館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島市立科学館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島大学総合研究博物館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 石橋記念公園・石橋記念館(祇園之洲公園) |
鹿児島市内(含む桜島) | いおワールド かごしま水族館 |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島市平川動物公園 |
鹿児島市内(含む桜島) | 奄美の里(本場大島紬の里) |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島市立ふるさと考古歴史館(掃除山遺跡出土品,草野貝塚展示博物館) |
鹿児島市内(含む桜島) | 県立吉野公園(桜のお花見の名所) |
鹿児島市内(含む桜島) | 多賀山公園(東郷平八郎銅像,東福寺城址) |
鹿児島市内(含む桜島) | おはら祭 |
鹿児島市内(含む桜島) | かごしま錦江湾サマーナイト大花火大会 |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島ウォーターフロント「ドルフィンポート」 |
鹿児島市内・天文館 | 山形屋百貨店 |
鹿児島市内(含む桜島) | 天文館(鹿児島の中心街・繁華街) |
鹿児島市内・天文館 | 天文館シネマパラダイス |
鹿児島市内・天文館 | 天まちサロン(観光案内所) |
鹿児島市内・天文館 | うなぎの末よし |
鹿児島市内・天文館 | 正調さつま料理 熊襲亭 |
鹿児島市内・天文館 | cafe de MANON(カフェ・ド・マノン) |
鹿児島市内・天文館 | さつまいもの館 |
鹿児島市内・天文館 | 唐芋ワールド |
鹿児島市内・天文館 | 池畑天文堂 |
鹿児島市内・天文館 | T−MAXボウル(T-MAX BOWL) |
鹿児島市内(含む桜島) | アミュプラザ鹿児島&大観覧車アミュラン |
鹿児島市内(含む桜島) | かごっまふるさと屋台村 |
鹿児島市内(含む桜島) | 南洲寺(僧月照の墓) |
鹿児島市内(含む桜島) | 南林寺由緒墓 |
鹿児島市内(含む桜島) | 松原神社 |
鹿児島市内(含む桜島) | 天保山公園(坂本竜馬新婚の碑,共月亭,砲台跡,調所広郷の像) |
鹿児島市内(含む桜島) | 慈眼寺公園(慈眼寺跡) |
鹿児島市内(含む桜島) | 谷山神社 |
鹿児島市内(含む桜島) | 鹿児島カテドラル・ザビエル教会 |
鹿児島市内(含む桜島) | ザビエル滞麑記念碑(ザビエル公園) |
鹿児島市内(含む桜島) | 桜島納涼観光船 |
鹿児島市内(含む桜島) | 桜島フェリー |
鹿児島市内(含む桜島) | 桜島(特に湯之平展望所) |
鹿児島市内(含む桜島) | 桜島焼窯元・桜岳陶芸 |
指宿周辺 | 岩崎美術館・工芸館 |
指宿周辺 | 時遊館COCCOはしむれ(指宿市考古博物館),橋牟礼川遺跡 |
指宿周辺 | 知林ヶ島 |
指宿周辺 | 特急「指宿のたまて箱」紹介+特別快速なのはなDX乗車記 |
知覧周辺 | 知覧特攻平和会館 |
知覧周辺 | 知覧武家屋敷群 |
知覧周辺 | ミュージアム知覧(南九州市立博物館) |
知覧周辺 | 薩摩英国館 |
南薩地域(指宿市山川) | 長崎鼻 |
南薩地域(指宿市山川) | フラワーパーク かごしま |
南薩地域(指宿市山川) | JR日本最南端の駅「西大山駅」 |
南薩地域 | 開聞岳 & 開聞山麓自然公園 |
南薩地域 | 池田湖 |
南薩地域 | あじろ浜(網代浜)訪問記&坊津観光案内 |
霧島周辺 | 霧島神宮 |
霧島周辺 | 霧島神宮古宮址 |
霧島周辺 | 高千穂河原&高千穂河原ビジターセンター |
霧島周辺 | 霧島連山登山(霧島トレッキング・霧島縦走コース:韓国岳,獅子戸岳,新燃岳,中岳) |
霧島周辺 | 高千穂峰登山 |
霧島周辺 | 和気神社&霧島市和気公園 |
霧島周辺 | 犬飼滝 |
霧島周辺 | 高千穂牧場 |
霧島周辺 | 生駒高原 コスモス園 |
霧島周辺 | 特急きりしま |
霧島周辺 | 観光特急「はやとの風」(肥薩線の旅行) |
霧島周辺 | 観光列車「いさぶろう・しんぺい」号(肥薩線の旅行) |
隼人・国分・姶良地域 | 上野原縄文の森(上野原遺跡) |
隼人・国分・姶良地域 | 鹿児島神宮(大隅国一宮) |
隼人・国分・姶良地域 | 霧島市立隼人歴史民俗資料館 |
隼人・国分・姶良地域 | 隼人塚 |
隼人・国分・姶良地域 | 霧島市立隼人塚史跡館 |
隼人・国分・姶良地域 | 熊襲の穴 |
隼人・国分・姶良地域・溝辺 | 高屋山上陵 (日向神話の彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト,別名・火遠理命(ホオリノミコト),山幸彦)の陵墓で、神代三山上陵の1つ) |
隼人・国分・姶良地域 | 龍門滝 |
隼人・国分・姶良地域 | 長年寺跡と島津墓地・亀墓 |
隼人・国分・姶良地域 | 加治木島津館跡(加治木護国神社) |
隼人・国分・姶良地域 | 蒲生八幡神社 |
隼人・国分・姶良地域 | 蒲生の大クス(特別天然記念物) |
北薩・中薩 ・ 日置市 | さつま湖公園 |
北薩・中薩 ・ 日置市 | 妙円寺 (島津義弘菩提寺で、妙円寺詣り発祥の禅寺) |
北薩・中薩 ・ 日置市 | 徳重神社 (島津義弘を祭神とする、妙円寺詣り会場の神社) |
北薩・中薩 ・ 日置市 | 雪窓院跡&島津義久公剃髪石(座禅石) |
北薩・中薩 ・ 日置市 | 一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園) |
北薩・中薩 ・ いちき串木野市 | 薩摩金山蔵 (焼酎蔵[焼酎工場]見学,金山跡坑道見学,薩摩料理&焼酎お食事処) |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | 川内川花火大会 |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | 新田神社(薩摩国一宮) |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | 可愛山陵(瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の墓) |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | 泰平寺 |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | 薩摩国分寺跡史跡公園 |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | 川内歴史資料館 |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | 川内まごころ文学館 |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | 川内戦国村 |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | 川内原子力発電所展示館 |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市街地 | きやんせふるさと館 |
北薩・中薩 ・ 薩摩川内市 | 藺牟田池(いこいの村いむた池入湯記) |
北薩・中薩 | 肥薩おれんじ鉄道 |
北薩・中薩 ・ 出水市 | 感応寺(感応禅寺)・五廟社(島津氏最初の5代の墓) |
北薩・中薩 ・ 出水市 | 出水市ツル観察センター |
北薩・中薩 ・ 出水市 | 出水麓武家屋敷群 |
北薩・中薩 ・ 出水市 | 出水市出水駅観光特産品館「飛来里」 |
北薩・中薩 ・ 出水市 | 日本一のお地蔵様(出水市・八坂神社) |
北薩・中薩 ・ さつま町 | 紫尾神社(紫尾区営温泉「神の湯」入湯記) |
大隅半島 ・ 志布志市 | 大慈寺 |
屋久島 | 益救神社(最南端の式内社,旧多禰国一宮) |
屋久島 | 屋久島大社 |
屋久島 | 屋久杉自然館(+「縄文杉の写真」,杉の茶屋) |
屋久島 | ボタニカルリサーチパーク(屋久島有用植物リサーチパーク)+トローキの滝 |
屋久島 | 屋久杉ランド(ヤクスギランド) |
屋久島 | 紀元杉 |
屋久島 | 白谷雲水峡 |
奄美大島 ・ 奄美市 | 奄美まつり |
奄美大島 ・ 奄美市 | 南洲神社(奄美市名瀬・芦花部) |
奄美大島 ・ 龍郷町 | 西郷松(西郷松跡) |
奄美大島 ・ 龍郷町 | 西郷南洲流謫跡(西郷南洲謫居跡) |
横浜 | ホテルニューグランド |
横浜 | 横浜伊勢佐木町ワシントンホテル |
横浜 | 横浜ランドマークタワー&横浜ロイヤルパークホテル |
湘南・三浦・鎌倉 | 観音崎京急ホテル・レストラン「浜木綿」(&「SPASSO(スパッソ)」案内) |
湘南・三浦・鎌倉 | 観音崎灯台 |
北九州,下関他 | 門司港レトロ地区:全般 |
北九州,下関他 | 門司港レトロ地区:旧門司税関 |
北九州,下関他 | 門司港レトロ地区:門司港駅 |
北九州,下関他 | 門司港レトロ地区:旧門司三井倶楽部 |
北九州,下関他 | 門司港レトロ地区:海峡プラザ(赤煉瓦ガラス館 & オルゴールミュージアム門司港を含む) |
高知の観光 | 高知城 |
高知の観光 | 桂浜 |
高知の観光 | 高知県立坂本龍馬記念館 |
高知の観光 | 坂本龍馬像 |
高知の観光 | 高知市立龍馬の生まれた町記念館 |
高知の観光 | 坂本龍馬誕生地の碑 |
北海道美唄市 | 炭鉱メモリアル森林公園 |
北海道美唄市 | 三菱美唄記念館 |
北海道美唄市 | 美唄市郷土史料館 |
北海道美唄市 | 美唄鉄道旧東明駅 |
北海道美唄市 | アルテピアッツァ美唄 |
名古屋市の観光 | 名古屋城&那古野城跡 |
名古屋市の観光 | 覚王山日泰寺 |
名古屋市の観光 | 末森城址(末盛城址)&城山八幡宮 |
福島県の観光 | いわき市石炭・化石館 ほるる |
福島県の観光 | みろく沢炭鉱資料館 |
福島県の観光 | 湯本山神社 |
長野県の観光 | 岩松院(福島正則公霊廟) |
長野県の観光 | 諏訪大社上社本宮 |
長野県の観光 | 諏訪大社上社前宮 |
長野県の観光 | 神長官守矢史料館 |
長野県の観光 | 尖石縄文考古館,尖石遺跡,与助尾根遺跡 |
長野県の観光 | 御射鹿池(みしゃかいけ) (東山魁夷の「白い馬」シリーズの名画「緑響く」の取材地) |
長野県の観光 | 横谷渓谷(よこやけいこく) |
岐阜県の観光 | 治水神社(薩摩義士ゆかりの神社) |
岐阜県の観光 | 千本松原(油島千本松締切堤) |
岐阜県の観光 | 国営木曽三川公園・木曽三川公園センター |
三重県の観光 | 海蔵寺(薩摩義士の墓) |
三重県の観光 | 常音寺(薩摩義士の墓) |
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